辻 有沙(ボーカルコーチング|12期生)
文/中城邦子 写真/大腰和則
■辻さんの軌跡
1988年 | ミュージカル・アニーに出演 |
2005年 | ライブ活動やイベント、コンテストなどに出場 |
2008年 | NHKの番組に出演、その後ソロのシンガーソングライターとして活動 |
2012年 | 深夜ドラマで韓国語に目覚める |
2018年 | 結婚後、ボーカルのコーチングを本格化 |
歌声は、世界に一つしかない“自分”という生身の人間が楽器となって奏でるものです。その表現力を爆発的に上げるためのボーカルコーチングを仕事にしています。生徒さんは本格的に歌を学びたい方が多く、青森から福岡まで、そして皆さん日本人ですが、ブラジルやタイ、台北などにもいます。幼い頃から、ボイストレーニング、タップダンス、ミュージカル、バレエ、器械体操などを経験し、大学以降、幅広く学んだ音楽史、言語学、心理学、骨格理論、東洋医学なども踏まえて、ボーカルを徹底的に紐解いています。
楽器は経年劣化するものです。ピアノなら調律を受ける、ギターならメンテナンスに出します。人間そのものが楽器になっているボーカルも、歌唱テクニックを身につけるだけではなく、土台を作っている骨など体や、心をケアすることで、本質的にもっと楽器としてよくなることを同時に目指しながら指導しています。
以前は音楽学校から業務委託を受けてボーカルレッスンをしていたのですが、2023年以降、インスタグラムの発信を通じて独自のメソッドを教える講師として完全に独立しました。コロナ禍以降は、むしろ、オンラインの良さを活かしたレッスンになっています。生徒さんにあらかじめ動画を録って送ってもらい、私も何度も聞いて確認してからレッスンに入る。本人が自分の歌を聞く機会ができ、成長スピードが高まりました。
ソングライター歴が長いので、制作に関わらせてもらったり、プロデューサーの立場で生徒さんと関わることもあります。一人ひとりの個性、表現したいことと向き合い、本人たちが自分自身を愛しながら音楽に没頭できるよう、いつも頼れる存在でありたいと思っています。
■歌を作り続けNHKに出演、プロデューサーの目にとまる
小さい頃から歌を作り続けてきて、小学生でミュージカルAnnieの舞台に立ち、表現することの楽しさに目覚めたことが本格的に音楽活動をする起点になっています。
慶應義塾大学2年生のときにオーディションを通りNHKの番組に出させてもらうようになりました。どちらかというと裏方気質で作詞作曲家を目指していたのですが、憧れの音楽プロデューサーに「自分の声で歌ったほうが、届くよ」と勧めていただきシンガーソングライターになりました。
第一線で活躍するプロデューサーなどたくさんの音楽人と接することができて、とても幸せなことではあったのですが、壁にぶつかりもがいた時間でもあります。「なんか歌が真面目なんだよね」「もっと本気でぶつけてよ」など、表現力に対する指摘を受けるたびに、どういうことなのか分からず、歌を作ることは好きでも、自分で歌うところでつまずいて、自信が持てずにいました。
あの頃の私が、喉から手が出るほど欲しかったのは、表現を言語化して教えてくれる人。今、自分がそうなりたいと思って活動しています。表現という、もやっとしたものをしっかり言語化して、納得して、前進できるようなレッスンをしたいと思っています。
■SFC中高で感じた第二言語を持ちたい思いと習得
シンガーソングライターからコーチ業へ。大きな転機となったのは東日本大震災でした。直接被災はしていないのですが、こもって制作をしていたエリアが計画停電でエアコンも冷蔵庫も使えない暮らしになりました。音楽業界は、音源が売れる時代からネットメディアへの移行期。周囲がその波に飲まれるなか、少し距離を置きたい思いもあり、三重県の祖母の家でしばらく暮らしたのです。
そんな仕事がストップした状態のときに、飼っていた愛犬が認知症になり、昼夜なく鳴き続け食事もままならない状態を8か月ほど介護し、いろいろな意味で精神的にしんどい時期に、NHKの深夜番組で見た韓流ドラマにハマったのです。
夢中で見ていると、俳優が喋るセリフと字幕の長さの違いに愕然としました。そこから写経のように韓国語を勉強したのです。没頭することで現実逃避ができて、気づくと韓国語話せるようになっていました。韓国語をマスターしたことは私の人生を動かしました。一つは韓国人の夫と出会い国際結婚し、結婚を期に今の講師業に大きく舵を切れたことです。もう一つは第二言語の取得という長年の思いを、叶えたからです。
SFC中高は帰国生が多く、日本語のほかに英語など、第二言語を持っている人がたくさんいます。育った環境で自然と英語を身につけた人を羨ましいと思いながら、当時の勉強では英語で話したり考えたりできるレベルには至らず、人生の中でいつか第二言語を持ちたいという気持ちがずっと残っていました。気づいたらそれを韓国語で乗り越えてしまっていた。SFC中高のあの環境にいたからこそ感じた憧れと羨望、複雑な感情が、マスターしたときの達成感につながっています。
子どものときの環境と感性で身につくものがある一方、大人になってからの修得は理性と知性で乗り越えられるという実感は、今の仕事のコーチングにもつながっています。例えば音楽一家で、日常的に音楽を浴びて育った人の表現力と、大人になってからやろうと思う人とでは明らかに出発点に違いがありますが、自分の経験があるからこそ別のアプローチがあることを伝えられると思っています。
■原点となった夏目漱石『こころ』のテスト
SFC中高では中学のときに器械体操部で県大会に出たり、高校では同級生とDUOを組んだり、音楽活動に熱心な人が多い学年だったこともあり、いくつかのバンドで会場を貸し切って半年に1度ライブを開催したりしていました。
音楽活動のほかには生徒会長を中学3年の終わりから高校3年まで4学年にまたがってやらせてもらったことも大きな経験になりました。中3のときに副会長に当選したのですが、会長戦で候補者がだれも過半数に達せず、生徒会則により、前期の生徒会からの指名でなった繰り上げ当選です。
そんなことありうるの?と思うかもしれませんが、前例がなくても自由にのびのびやることを許す校風がSFC中高にはありますね。それが今の自分の人生に大きく影響していると思います。生徒会は、塾校や志木校、女子校との校外活動でのつながりがあったので、SFC中高の校風をより強く感じることができたのかもしれません。
振り返ってみると、今の仕事の原点になっているのは、国語の林弘之先生の授業です。夏目漱石の『こころ』を授業で学んだ後に出されたテスト問題が、「先生、K、お嬢さんの住んでいる家の間取りを書きなさい。事前に準備してきて構いません」というような内容でした。小説ってこう読むんだと学んだできごとでした。小説を読み解くというのは、ぼんやりと文字を追うことではなく、リアリティのあるものをどれだけ自分の心に描けるか、なのだと気づかせていただきました。
今私が歌のレッスンをするとき、歌詞について生徒さんに考え読み解いてもらっています。この主人公は自分のことを僕、私、俺、なんと呼んでいるのか、何歳だろうか、何をしている人で、歌いたくなったのはいつ、場所はどこ? と。
歌は、臨場感と説得力がなければ、聴く人の琴線と呼ばれる心の奥深くへと続く表現の扉を押し開けられないと思っています。その扉の向こう側へのたどり着き方を林先生への授業で教えてもらったのだと思います。
その後、大学時代に音楽史や言語学に興味を持って片端から受講していたことが、声楽とポップスの違いを自分なりに構築することになったり、犬の介護の経験から獣医のアシスタントを経験し、西洋医学と東洋医学の違いに関心をもったり。そのときどきの興味や関心を夢中で追いかけてきた、一つひとつのピースがつながって今の自分になっているのかなと思います。
SFC中高では高3で論文実習、いわゆる卒論があります。私は「ユーミン(松任谷由実さん)の曲の切なさの理由について」をテーマにしました。曲数があまりに多くて聞いて終わってしまって、成果は出せなかったのですが、1年間かけて松任谷由実の曲をマニアックに聞き続ける日々があったことは、今でも私を支えている部分があります。
卒論も林先生に指導していただいたのですが、「切なさ」という言語化しづらいものを言語化することにどう向き合えばいいのか、どんなことが必要か、こうすれば人を説得できたり納得させたりできるんじゃないかというアプローチのヒントと可能性について、学ばせてもらいました。私の中では、そのときに成果を出せなかった卒論を今もやり続け、それが仕事になっている感じです。
■在校生へのメッセージ